CMC letter No.11(第11号)- [特集]化学物質管理のリスクコミュニケーションの課題
当センターの調査では、リスクコミュニケーションの実施経験のあるPRTR届出対象事業者は約30%で、リスコミが事業者や地域において、必ずしも一般化したとは言えません。化学物質の自主管理の推進や地域の環境管理にはリスコミが不可欠であり、その成立にはステークホルダーである市民、事業者、行政がそれぞれの役割を果たすことが必要です。現状において、リスコミの推進が停滞しているとすれば、市民、事業者、行政それぞれに何らかの課題があるのではないでしょうか。
その課題について、産総研の岸本さんにご指摘いただきました。
リスクコミュニケーションの壁を超えるには
独立行政法人産業技術総合研究所安全科学研究部門
岸本 充生
リスクコミュニケーションが必要だと言われ始めてからずいぶんと経ちます。厚生労働省では「消費者、事業者、行政担当者などの関係者の間で情報や意見をお互いに交換しようというもの」、環境省では「環境リスクなどの化学物質に関する情報を、市民、産業、行政等のすべてのものが共有し、意見交換などを通じて意思疎通と相互理解を図ること」、経済産業省では「事業者が地域の行政や住民と情報を共有し、リスクに関するコミュニケーションを行うこと」と書かれており、情報の共有と意見交換がその中心であることが分かります。しかし、状況が改善されたという評価をあまり聞きません。改善していないのだとしたら、それには理由があるはずです。私は次の3点を考えました。
第一に戦略の欠如です。リスクコミュニケーションはその行為そのものが目標ならともかく、リスク概念に基づく合理的な意思決定を社会に普及することが目標であるはずなので、それに到達するための手段や戦略が必要です。市民や消費者を対象とした普及啓発イベントが中心の現在のアプローチには、行政や事業者が専門家で、市民が素人という暗黙の前提があると思います。もちろん科学技術については一般市民は素人ですが、日常生活においては動機付けさえあれば複雑な計算と行動に対する意思決定を行っています。家計のやりくりや子供の安全などを考える際の頭の中での計算は直観的ではありますが立派なリスクベネフィット分析です。これに対して、「健康リスクはない」と言いながらの全品回収だとか、「天然だから安心」や「無添加」という宣伝文句だとか、少しでもネガティブな情報があるとすぐに「○○フリー」として代替してしまう姿勢だとか、事業者こそがほんとうにリスク概念を理解し、実践しているのか疑問です。事業者のリスクへの態度が変わると、それはマスメディアやホームページなどを通じて、消費者へも良い教育効果があると思います。
第二にリスク評価の欠如があります。リスクコミュニケーションの前提に、リスクが評価されていなければなりません。「リスク評価なくしてリスクコミュニケーションなし」です。現在リスクコミュニケーションとして解説されているものはコミュニケーションのノウハウばかりで、リスク評価をきちんと実施し、そのプロセスや結果をどのように伝えるかという重要な側面が抜け落ちています。PRTR制度の対象物質の環境排出量を削減したことを伝えることは、リスクコミュニケーションではありません。そのことが代替物質やライフサイクルまで含めて本当にリスクを減らしたのか説明されて初めてリスクコミュニケーションです。PRTR制度も始まって10年近くたち、単純な排出削減は難しくなってきています。と同時に、リスクの観点から見ればこれ以上減らす必要がないレベルに到達しているケースも少なくありません。事業者はそのことをきちんと説明しなければ、無駄な投資をすることにつながり今度は株主に損害を与えてしまいます。
第三に、そもそも「リスクコミュニケーション」で十分なのかという疑問があります。「リスク」だけコミュニケーションを行ってもあまり意味がありません。当然、ベネフィットも伝えなければ判断できません。遺伝子組み換え食品が受け入れられなかった理由の1つに、専門家はリスクが小さいことを伝えることに熱心なあまり、ベネフィットが十分に消費者に伝わらなかったことがあると思います。また、リスクコミュニケーションが住民や消費者を集めたイベントに矮小化されている傾向があります。イベントを実施すること自体は、リスクコミュニケーションの中での1つのやり方にすぎず、事業者が普段からリスクをきちんと評価し、それに基づいて管理し、それらの情報を常に公開し、住民の意見を聞いているという態度や姿勢こそがリスクコミュニケーションなのだと思います。
参考資料
岸本充生(2009)。化学物質領域でのリスク管理の考え方と問題―リスク概念に基づくアプローチを阻害するのは誰か―。日本リスク研究学会誌 19(1)、29-36。
リスクコミュニケーションを市民はどう見ているか
独立行政法人製品評価技術基盤機構化学物質管理センター
竹田 宜人
当センターでは、化学物質管理のリスクコミュニケーション(以下、「リスコミ」といいます。)に関する調査を継続的に行っています。ここでは、リスコミの重要なステークホルダーである市民の皆さんの、リスコミに関する意識調査の結果を報告します。
【調査の方法】
調査は、ウェブアンケート会社の管理する会員から、地域、性別、年齢層について、わが国の人口構成を踏まえ、調査対象者を選択し、メールで案内の後、ウェブ上の調査票に回答する方法で行いました。回答者数は2,996人であり、調査は2007(平成19)年11月に実施しました。
【調査の結果】
PRTR制度の認知度とリスコミへの参加経験などについては、表-1に示すように、市民の約90%がPRTR制度を知らないことが明らかとなり、参加経験は、約1%に過ぎませんでした。
選択肢 | 回答数 | 割合(%) |
---|---|---|
よく知っている | 39 | 1.3 |
なんとなく知っている | 130 | 4.3 |
聴いたことがある | 370 | 12.3 |
知らない | 2457 | 82.0 |
回答者数 | 2996 |
次に、「日常的な関心事」について、尋ねたところ、主な関心事は、「健康」と「食」でした。これは、食に関する偽装などが、当時、社会問題化していたためと考えられます。しかし、「環境問題」を約30%の回答者が選択し、日常生活の中でも、環境問題への関心の高さが伺える結果となりました。
その中で、最も関心の高い環境問題は表-2に示すように「地球温暖化」、「廃棄物問題」であり、「化学物質」への関心は約5%と低い結果となりました。化学物質には関心が高い、とよく言われますが、調査結果からは、その傾向は見られませんでした。
選択肢 | 回答数 | 割合(%) |
---|---|---|
地球温暖化 | 1510 | 50.4 |
廃棄物 | 454 | 15.2 |
環境汚染 | 323 | 10.8 |
自然破壊 | 252 | 8.4 |
オゾン層破壊 | 157 | 5.2 |
化学物質 | 156 | 5.2 |
特にない | 54 | 1.8 |
生態系 | 52 | 1.7 |
その他 | 38 | 1.3 |
回答者数 | 2996 |
さらに、「化学物質が気になるか」と言う質問をしてみると、表-3のとおり、「とても気になる」は約8%に過ぎませんでしたが、「気になる」を加えると、約40%が「気になる」と回答したことになります。この結果は、市民は化学物質への関心が高いとする、これまでの調査結果を確認したことになります。
選択肢 | 回答数 | 割合(%) |
---|---|---|
とても気になる | 247 | 8.2 |
気になる | 1018 | 34.0 |
少し気になる | 1307 | 43.6 |
あまり気にならない | 391 | 13.1 |
全く気にならない | 33 | 1.1 |
回答者数 | 2996 |
ここで、不思議なのは、環境問題の中では、化学物質への「関心は低い」と言う結果との矛盾です。そこで、市民の皆さんが気にしている「化学物質」について、重複回答で尋ねました。その結果は、表-4に示すように「食品中」を約76%の回答者が選び、続いて「環境中」が約63%であり、「工場」は約40%と低い結果となりました。これは、最近の調査で、一番不安に感ずる化学物質として、「食べ物や飲み物に含まれる化学物質」が報告されていることと一致しています。(三菱総合研究所2005)
選択肢 | 回答数 | 割合(%) |
---|---|---|
食品中の化学物質 | 1951 | 75.9 |
環境中の化学物質 | 1608 | 62.5 |
廃棄物中の化学物質 | 1178 | 45.8 |
シックハウス | 1119 | 43.5 |
医薬品、日用品 | 1034 | 40.2 |
工場からの化学物質 | 1026 | 39.9 |
化学物質過敏症 | 467 | 18.2 |
その他 | 27 | 1.0 |
回答者数 | 2572 |
なお、「環境中の化学物質」は、二番目に選択が多い結果となりましたが、その排出源を気にするなら、PRTRデータと関係の深い「工場からの化学物質」が選択されても良いはずです。しかし、そうならないのは、環境への排出源としての工場をリスクとして認識していないことを示しているのかもしれません。
【調査結果の活用】
PRTR制度は、事業所から届けられた排出量を公開することで、社会的なインセンティブが働き、事業者の自主的な化学物質管理が推進されることがひとつの目的です。また、公開されたPRTRデータが市民の地域における化学物質管理への関心を生み、事業者とのリスコミが地域の環境管理への参加を促す効果も考えられます。しかし、この調査結果が示すものは、市民の皆さんが、気にしている化学物質は「食品中の化学物質」であり、PRTR制度において公開される「工場から排出される化学物質」ではないことと、PRTR制度の周知が不十分で、関心を持つに至っていないことであり、これは、市民のリスコミへの参加が進まない事実を裏付けるものでした。
当センターでは、他にも、継続的にリスコミの事例調査も行っています。(これについては、次章で紹介します。)その結果から、リスコミの目的が課題解決ではなく、地域の関係者間の信頼の醸成に置かれることが多いこともわかっています。それは、地域の事業者と市民の関係が過去の公害のような対立ではなく、何事もない日頃の様々な付き合いを通じて信頼関係が築かれていることと関係があるものと考えています。
実際のリスコミの状況から、工場からの化学物質の排出を環境リスクの元凶と見て、その軽減や住民の安心・安全の確保を図るといった目的以外に、地域コミュニティの中の事業者の役割といったわが国の地域社会に深く根ざし、日本型とも言えるリスコミの形が存在する可能性も示唆できるようです。このことから、リスコミの姿や効果よりも、形にとらわれない様々な化学物質管理に関する情報提供の機会を設け、常に説明責任が果たせるような体制を構築することが重要と考えられます。当センターでは、これらの調査結果を踏まえ、自治体や事業者の皆さんが理解しやすく、現場で取り組みやすいリスコミの形を示していくのもリスコミ支援の方向性と考え、今後も調査と情報発信を継続していきます。
本文は、当センターが日本リスク研究学会で発表してきた内容を踏まえて記述したもので、三菱総合研究所様の「環境リスクの評価と対策に関する調査(2005)」を参考にしています。
PRTRデータ活用セミナーの効果
化学物質管理センターリスク管理課
当センターでは、平成20年度から、自治体のPRTR制度担当者向けに、PRTRデータ活用セミナーを開催しています。これは、リスクコミュニケーションでリスクが説明されていない現状を踏まえ、リスクコミュニケーションの「リスク」とは何でしょうか?そのリスクをどのように伝えていけばよいのでしょうか?そのようなことを考える機会のひとつと考えています。
本セミナーでは、PRTRデータを自治体や事業者など、実際の現場でどのように活用していけばよいか、当センターのホームページからダウンロードでき、あるいは利用できるコンテンツを組み合わせて、簡易的なリスク評価を行い、「リスク」を定量的に示すための利用例を紹介しています。以下、研修の内容について述べます。
(1)PRTR制度の概説
環境省、経済省の主催する全国のPRTR担当者会議に先立ち、初めて、PRTR届出業務に携わる担当者のため、PRTR制度やその届出の概要、注意事項などを説明しています。
(2)化学物質のリスクについて
化学物質管理のためにはリスク評価に基づく自主管理が必要といわれますが、高校や大学等の教育機関での化学物質のリスク評価に関するカリキュラムは未整備で、担当者になってから取り組む方が多いのが現状です。そのため、リスクとはなにか、有害性評価、暴露評価、リスク評価の概要について説明し、リスクコミュニケーションで伝えるべき、リスクの姿を説明しています。
(3)実習
1)けんさくん
けんさくんは、PRTRデータの検索集計やグラフ化が簡単にできるソフトです。この実習では、けんさくんを使い、自らの自治体を範囲として、主な排出先、排出量の多い物質、排出量の多い事業者などを図表化し、リスク評価の対象とすべき化学物質を選んでいきます。(図参照)この実習では、実際の現場でリスコミに活用できる資料作りも目的としており、実際に作成した資料をパワーポイントに貼り付けていきます。
http://www.prtr.nite.go.jp/prtr/prtrdss.html
2)大気濃度マップ
大気濃度マップは、主に大気へ排出される化学物質(約200)種について、AIST-ADMERを使い、5キロメッシュでシミュレーション表示したものです。実習では、各自治体において、1)で選んだ化学物質について、その地域の最大濃度を調べます。
http://www.taikimap.nite.go.jp/prtr/top.do
3)リスク評価体験ツール
リスク評価で利用するデータのうち、有害性評価、暴露評価(食事など)は初期リスク評価書のデフォルトを使い、暴露評価のうち、呼吸器経由の暴露については、2)の大気濃度マップの地域最大値を用い、リスク評価を行います。リスクコミュニケーションに本来使用すべきデータであるリスク評価結果を実際の地域の最大値を用いることで、実感していただくのが目的です。リスク評価体験ツールの詳細な説明は次章を参照してください。
4)班別実習
本研修の特徴は、様々な自治体のPRTR担当者が参加することです。リスクコミュニケーションでは、地域の特性を生かし様々な事業が行われています。本実習では、参加者を班に分け、3)で作成したリスク評価結果に関するプレゼン資料をもとに、特定の自治体を選び、リスクコミュニケーションに関する事業や施策を検討します。その検討過程を通じ、それぞれの自治体の課題、実績などの情報交換ができることにメリットがあるものと考えています。リスクのある場合は、その削減について、ない場合は「ない状態」を継続するために、市民、事業者、行政がどのようにコミュニケーションを図っていくか、様々な意見が提案され、企画側も参考にさせていただいている実習です。
(4)セミナーの効果
本セミナーは、平成20年度は30自治体にご参加いただきました。21年度は要望により東京と大阪会場に拡大し、東京会場は28自治体、大阪会場は新型インフルエンザの影響で延期になっていますが、18自治体が参加の予定です。この研修を通じ、複数の自治体が地域のリスク評価を行い、リスクコミュニケーションに生かす取り組みを始めています。当センターは、本研修以外に、11月頃実施される経済産業省化学物質管理研修でも、同様な情報提供を行っています。是非、ご活用戴ければと考えています。
わかりやすい化学物質管理情報の提供の試み
化学物質管理センターリスク管理課
当センターでは、市民向けの化学物質管理に関する情報提供やリスクコミュニケーションに活用できる情報源として、「化学物質と上手につきあうには~わかりやすい解説のページ~」を公開してきました。この度、その内容をリニューアルするとともに、コンテンツの整理を行い、シンプルで必要な情報にヒットしやすい構造にいたしました。ここでは、その紹介と利用方法について解説いたします。
http://www.safe.nite.go.jp/management/index.html
「よくわかる化学物質管理」
このページでは、リスク評価に基づく化学物質管理について、中学生の皆さんでも理解できるような解説を工夫してみました。
化学物質の概念から、有害性評価、暴露評価、リスク評価、リスクコミュニケーションまで、化学物質管理の流れを紙芝居的に説明したものです。
作成にあたっては、私立西武学園文理中学の皆さんの協力により、内容の見直し、デザインの統一などを行いました。登場するキャラクターを親しみやすいものにするなど、中学生ならではの意見も取り入れたものになっています。
事業者や自治体の新しくご担当者になられた職員の方や初めて、化学物質管理を学ぶ学生や関心の高い市民の皆さんに見ていただきたいと考えています。今後、本ホームページをもとに、小冊子の作成を予定しています。
http://www.safe.nite.go.jp/management/kaisetsu/kaisetsu_index.html
「リスクコミュニケーション国内事例」
このページでは、これまでも、事業者のリスコミ事例を収集し、公開してきましたが、データ更新と、事業者の皆様がリスコミを企画する際に必要な情報の掲載を目的にして見直しを行いました。項目としては、どのような関係者が参加しているか、どんな話題を選んだか、どんな質問が出たか、など、気になるところの情報を追加しました。収載事例は65事例とやや減少しましたが、皆様からの情報提供などで順次追加していく予定です。自治体の皆様のモデルリスコミの企画にも活用戴けると思います。
http://www.safe.nite.go.jp/management/risk/kokunaijirei.html
「リスク評価体験ツール」
このツールは、初期リスク評価書の有害性情報や暴露情報などをデフォルトで収載し、利用者の皆様がデータを調べることなく、簡易なリスク評価ができるようにしたものです。この活用方法は前に述べたとおりですが、PRTR対象物質のうち、150物質のデータ全ての入力が終わりましたので、自治体における地域のリスク管理の参考情報として、あるいは、事業所周辺のスクリーニング的なリスク評価に活用できるものと考えています。
初期リスク評価書の本文はこちらでご覧下さい。
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